この実戦問答でも以前述べた(実戦問答6参照)、インバスケット演習運用に関して、最近思うことを述べる。インバスケットとは、一定時間に数十件の未決案件処理をする演習である。
このインバスケットを昇進試験中の筆記試験として用い、全くフィードバック(課題内容の討議や解説)をしない場合、あるいは採点はするがフィードバックができないと言う講師が増えたと言う話を最近多く耳にするからである。
インバスケット演習は、いわゆる人材アセスメントの一部分として、かなり以前から昇進試験の重要ツールとして用いられてきた。逆にその結果、マネジメント能力の中の意思決定、問題解決、業務遂行の範囲、言いかえれば、計画、組織化、統制、分析、判断、決断と言う流れを体験的に学ぶことにおいて、これより効果の高いツールはないのではないかと言うくらい有用なものであることが実証されてきた。そこで、昇進試験に限らず、啓発型のアセスメント研修にもずいぶん採り入れられてきた。
啓発型研修なのに、フィードバックができないと言うことはあってはならないのは容易にご理解願えると思う。問題は昇進試験の場合だ。
こんなことがあった。ある会社の研修後の懇親会で、「先生、あのインバスケットと言うのをどう思いますか。」とある受講者に聞かれた。この時に私がお手伝いしたのは、全く別内容の研修である。
「どうって・・・・・ゲームとしては、とてもおもしろいですよ。」
「先生、実は私は、あのインバスケットと言うので、2度も昇進試験に落ちましてね。本当にあのインバスケットと言うのにはまいりましたよ。」
「そうですか・・・・・。」
聞けばこの会社では、インバスケットを昇進試験の「足切り」に用いており、文字通りの試験であり、フィードバックも解説もなく、合否だけが通知されると言う。どうやらこの質問のあるじは、私に「あのようなものでマネジメント能力が評価できるのですか」と言いたいらしい。これではそう思うのも無理はないだろう。
この人のことは、アクションラーニング等でごいっしょしたからよく知っているが、とても実務には堪能で、逆に言えば、マネジメントと言うのはこう言う人に習ってもらうためにある。昇進試験であれ何であれ、と言うよりそう言う時だからこそ、マネジメントのなんたるかをしっかり勉強する、のちのち忘れ得ない良い機会になるのである。しかし、その機会を失い、インバスケットに対する悪印象だけが残った。このインバスケットで処理した内容を討議する場面をファシリテートし、各受講者にフィードバックする技術は、アセスメントの研修技術の中で最高度のものだろう。だから「業界」でもそれができる人がだいぶ減ってきたと言う。何やら伝統あるものづくり企業から、高度熟練者が消えゆくようなさびしい話だ。これは「マネジメント教育業界」の伝統芸能である。
もうひとつ問題なのは、百歩譲ってフィードバックの要否を別論としても、本当に適正な評価が行われているかと言うことがある。この会社にあって、漏れ伝わって来る「採点基準」は、「何件案件を処理したか」「処理手順は、全件を先に読んでから進めているか」「関連案件をクリッピングしているか」など、比較的形式的なことが多かった。そうした事柄は、そこだけ取れば有意なことかも知れないが、全対論としては全く本質的な評価基準ではない。本質的な評価基準は何かと問われると、詳しく述べるには原稿10枚にもなってしまうが、ひとことで言えば「限られた時間の中で質的量的に十分な意思決定を行っていたか」である。これは真に訓練を積んだアセッサーしかできないし、そうでない人が、人の運命がかかった時に、安易に評価を行うべきものでもないだろう。この訓練は、さほど容易なものではない。
話を戻すと、真に訓練を積んでいない人では受講者へのフィードバックは決してできない。受講者に何か質問されたらたちまち窮してしまうからだ。かんぐれば、だからフィードバックの場をつくらないのかも知れない。
さて私に質問してきた方だが、実際、この人といろいろな研修をごいっしょして見ていて、実務上の判断は的確だし、微妙な事柄への柔軟性は高いので、よほど書き物が苦手でもあったのだろうか。まあそうも見えない。ご不運と言うしかない。それやこれやに思いをめぐらしながら、私は彼に言った。
「ところで、そのインバスケットですが、試験に落ちたのは残念だったとして、どこがどうだったか知りたいでしょう。」
「そうなのです。」
「本当はそのインバスケットをやったあと、じっくり討議をして、フィードバックを受けるのが筋道なのですよ。」
「そうなのですか。そう言うのがあればぜひ受けてみたかった・・・・・。」
昇進試験と言っても、知識の試験もあれば行動の試験もあるだろう。資格等級の低い段階ではなく、マネジャーに登用しよう言うような時には、行動の試験の方が重要だろう。それを行う限り、フィードバックをしなければ、試験の権威、つまりは納得性を高めることは難しい。試験結果に納得がゆかないことを、インバスケットと言う、先人が磨き上げ、結晶化した手法のせいにされては先人も泣くだろう。私も本当に残念だ。
ある公開セミナーでインバスケットの見本をご覧いただいて紹介し、受講者どうしでごく簡単な討議をして頂く場面があった。何やら憤然としている人がいる。どうしたのかお聞きするとこう言われた。
「うちの人事部が、いきなりこれを人事考課に使うと言ってやり出し、わけもわからないまま評価が着いてきたので、みんなおもしろくないと言っていたところなのです。」
これではインバスケットが泣くと言うものだろう。
インバスケットを使いこなすには、マイスターになるような訓練が必要である。これも含め、行動科学の応用は、学問でなく、どこまでいっても修練、職人の世界である。私自身は、部下がどれだけ増えても、現役最後の日まで、部下より優れたマイスターであり続け、こうした先人の遺産のすばらしさを、ひとりでも多くの人に伝えられたらと思っている。
(この記事は「株式会社マネジメントフロンティア」ウェブサイト上に2011年6月01日付で掲載された記事「あのインバスケットと言うので、2度も落ちましてね~アセスメントの試験への活用とマネジメント啓発~」の再掲載です。)