人材アセスメント研修の「面接演習」に関して、最近考えさせられることがあった。

その日の題は、ある部下が、緊急重要なトラブル処理を上司不在中に行い、経費支出に絡む所定の手続や報告が遅れたため、関係部署から強いクレームをつけられたので、事情を聞いて対処を決めると言うもの。処置自体は成功し、組織としては大きなピンチを逃れたところだ。たまたまその日の受講者は、どういうわけか、他部門のクレームをそのまま受け入れ、一生懸命に、直属部下の落ち度を見つけ屈伏させようとする人の割合が多かった。いわく「なぜ君は事前に報告できなかったか」「報告する意思があったのか」「どんなに急ぎでも実行よりまず承認手続が先ではないか」「ルール遵守を何と心得ているか」などなど。部下役は私どもコンサルタントである。

わざとルールや手続を破る部下などどこにもいない。せっかく会社のためを思い、臨機の判断でピンチを救ったのに、何のねぎらいもなく手続的な欠落を当初から問責的に指摘されたら、部下役は「反論しなさい」と私がつくったマニュアルには書いてある。まあこの辺まではいい。演習と言う一種の極限状態だから、ついつい肩に力が入るのだろうから。部下が冷静に、上司に連絡不可の際、重大であった事態を指摘し反論すれば、聞く耳を持って頂ける上司のほうがまだ多いと私は感じている。この日は偶然なのか、あまりそう言う上司役が出て来ない。こうしてできあがった幾人かの面接演習ビデオを、今度は全員で見てみると、物別れに終わったケースが目立った。上司と部下とのどっちが善いか悪いかと言う視点はマネジメントにはない。物別れに終わって問題が解決できない、つまりは上司は地位を与えられながら指導力を行使できなかったと言う結果を深くふり返りなさいと言うのがマネジメントの考えである。

ビデオを見ながら次第にうつむいてゆく人が、従ってこの日は少なくない。おつらいことだろう。が、組織運営の状況判断の意味でも、個々の部下の動機づけの面でも、どうやら何か大切な点をうっかり失念したことをしみじみ気づいてもらうには実に良い機会だ。こうした機会がせいぜい10年に一度だと思えばなおさらである。もちろん重要な前提がある。こうした演習は、部下役が冷静で理の通った内容を、きちんとした態度で開陳反論できなければ意味をなさない。私も部下を預かると、しばらくはこうした特訓である。部下役が感情的に好き勝手な事を言うと面接にも演習にも何もならない。

各班のビデオ観察とそれに基づく相互フィードバックを終えて、全員が教室に集合し、私が簡単に講評した。講評と言うより、私の場合はいつも問いかけに近い。

「皆さん、部下を屈伏させてやろうと思って臨んでいませんでしたか。」

まだここでは誰も答えてくれない。

「念のためケーススタディを私も読み返してみましたが、『部下を屈伏させよ』とはどこにも書いていません。『起きてしまった問題を解決してください』と書いてあり、その方法は、マネジャーである皆さんにゆだねられています。」

そうかしまったと言う表情が幾つか見える。

「問題解決の方法を幾つか考え抜いた上、この場合は部下を叱責し、その高慢な鼻をいっぺんへし折ってやるのがいちばんよいのだと『判断』したなら、それはそれで一法かも知れません。」

ここである受講者が苦笑いしながら口を開いた。

「いえ、先生、そんなことを考えているゆとりはありませんでした。ともかく、手続を怠った部下を強く注意しなければクレームがおさまらないと思いこんだのですよ。しかし・・・・・」

「しかし?」

「おっしゃる通りで、同じ注意をするにしても前後の状況をもっと確認してからにすればよかったですね。」

「それに気づいただけでも、今日はお忙しい中、ここに来た甲斐がありましたか。」

「ええ、とても意味がありました。」

幾人かの人が声に出して笑った。

「けれど先生、10分しかないと思うとついつい結論を急ぎたくなって・・・・・」

別な受講生が発言した。面接時間は10分と決められている。

「そうそう、で、あなたは、ビデオに自分が出てきた10分間、見ていて長かったですか、短かったですか。」

「いやそれは・・・・・長く感じました。」

「どうしてですかね、あなたがおっしゃるとおり、たった10分ですよ。」

「・・・・・いや、見たくないもの見ていたからでしょう。」

今度は教室じゅうが大笑いだ。

「そうですね。だから10分は少しも短くありませんよ。いったい会社の中で、2人きりで向き合ってすわって、10分間ただひとつの事を話すなんて場面はそう多くないでしょう。だから現実よりはずっとやさしくこのケースはつくってあるかも知れませんよ。」

苦笑いしている人が数名いる。

「その10分間、もし、何も解決できずに終わったと悔やんだとしたら、どうしてそう言うことになったのでしょうか。」

「部下の考えをよく聞いていないからです。」

その受講者は間髪を入れずに答えた。こう言う方は、もう次から現実の場面でだいぶ変わるだろう。

「そうです。部下の主張する事実や心情をよく受け止めないまま部下の行動に否定的評価をすれば、反発を招きます。それにいちいち応酬していたらあっと言う間に時間がなくなります。『なるほど、君はそう言うつもりでそれをしたのか、よくわかった』と部下の立場を受け止めるゆとりがあれば、部下もぐっと早く上司の側の考えや立場を聞きたい気持ちになったかも知れません。」

深くうなづいている受講者が多くなってきた。

「こう言うのを、能動的傾聴とか、感情移入とか普通は言うのですが、まあ今日はテクニカルな話よりも、もう少し本質的な事を言って終わりにしましょう。」

うつむき加減だった人も改めて顔を上げて私の方を見た。このあとはもう一度全員への問いかけである。

「皆さんがこの例題において期待された役割は、上司の方針、考えを理解するよう部下を、せめて『説得』することです。部下を打ち負かし、屈伏させることではありません。いったい部下と斬り結んで何を得られるのですか。」

「・・・・・」

「部下と斬り結べば今は皆さんの方が力が強いから勝つ。しかしそれでどうなりますか。次の機会には、上司を打ち負かしてやろうと、そう言うファイトを部下に燃えさせることになりませんか。」

「・・・・・」

「私も立場を変えれば皆さんと同じひとりの上司ですが、そんな人間関係はできればごめんこうむりたい。」

ほとんど全員が自分もそうだと言う顔をしておられる。

「マネジメントの研修ですから『説得』『納得』『コンセンサス』とか、きれいな客観的な言葉を使っていますが、私は皆さんのように立派な会社で上司を勤める人には、まだ言葉が手ぬるいと思っています。私たちが目指すのは、本来部下を包み込み、その『心服』を得ることです。部下と競い合うことではありません。」

「・・・・・」

「部下の心服が得られて困る人はいないでしょう。と言うより、より困難で質の高い仕事をしようとするなら、部下が心から自分につきしたがってくれなければ、成し遂げることはまず難しいでしょう。どうしたらそのようになるのか、次にお会いする機会までもう一度いっしょに考え実行してみませんか。」

「先生、また面接をやるんですか。」

ある受講者がそう言うと、また教室中が笑いどよめいた。

「またやりたいですか。」

「いえ、いやあ、その・・・・・」

「今は特別に予定はないと思います。が、皆さんが職場に帰って、今日感じたことを実践しないでいると、うしろの人材開発部の○○さんがまた面接の特訓をご計画なさるかも知れませんね。」

先生もうカンベンしてくださいと、笑って私を見る表情が多くなった。だいぶ教室に温かな共有感が生じてきた。もう研修を終える潮時だ。

人は節目の行動が問われる。どうでもいいときにいくら立派な演説をしても、そんなことは誰も覚えてはいない。また、そのようなことで人間関係も決まらない。逆に、本質的な利害がかかった時に上司がどんな態度をしたかを、部下は一生忘れないのだ。この演習は、ある意味でそうした本質の断面を集約した場面でもある。「説得力」と「包み込み力」「被心服力」(普通の言葉なら指導力)は、そうした節目を左右するリーダーの力である。

さて、上記のような例は、もちろん色々改善を要するとしても、上司の力強さと言う一面からは、ある種の懐かしさを感じさせる情景と言えないこともない。むしろ最近は、上司の側の自信喪失、とまではゆかなくとも意思決定力の希薄化こそが今後の課題かもしれない。次に機会ある時には、やはりこうした演習でそれが現れた時にはどう言う情景になるか述べてみたい。

(この記事は「株式会社マネジメントフロンティア」ウェブサイト上に2010年12月30日付で掲載された記事「実戦問答No.4」の再掲載です。)