これからの時代の人材育成は「自律性」が不可欠なテーマになる。と僕は思ってます。でも、この「自律性」、多くの企業にとってはそんなに飲みやすいお薬ではないとも思う。

よく「自律した社員になってほしい」という経営者や管理職の方がいます。

でも「本当に自律しちゃって良いんですか?」というのは実は疑問だったりもする。正直、経営者や上司にとって都合の良い「自律性」を期待しているように見えることも少なくない。

つまり、ある部分は自分で考え自分で行動してもらいたい、でも別の部分では余計なことは考えず言わず行動せず従ってもらいたい。
そんな「部分的自律/限定的自律/条件付き自律」のようなものを求めているように見えます。

さて、そんなものがあるだろうか?たぶん無い。

本当に自分の頭で考える人は、経営者の思惑を超えて思考するし行動する。本来、企業としてはそれが企業の利益になるなら「それで良い」ことのはず。でも、往々にして経営者や上司は「自分の思惑の中にコントロールしたい」になってしまうようです。

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ここで、そもそも「自律性」とはなんでしょう?

それを考えるにあたって、「内発的動機づけ」というコンセプトを思い出すと分かりやすいかもしれません。
「内発的動機づけ」とは、人間が外側から刺激されてモチベーションが生まれるような「外発的動機づけ」に対して、内面からのモチベーションになるもののことです。

要は、お馬さんが人参を目の前にして「よっしゃ」と走り出したり、追い込み鞭が入って「いってーな」と仕方なく走る、そういうのが「外発的動機づけ」。
それに対して、「おいらは一番になりたいんだもんね」と一生懸命走る馬が実際いるかどうかは分からないですが、そういうお馬がいるとして、その奇特な馬のモチベーションが「内発的動機づけ」です。

その内発的動機づけの根本には、人間が生まれながらに持つ3つの基本的な欲求がある。と言われております。あえて乱暴にまとめてしまうと…

自律性(autonomy)の欲求
「自分のことは自分でコントロールしたい」という欲求。

有能性(competence)の欲求
「うまくなりたい・できるようになりたい」という欲求。

関係性(relatedness)の欲求
「誰か他の人とつながりたい」という欲求。

その一つが「自律性(autonomy)」、ということです。

このautonomyという単語、一番しっくりくる日本語訳は「自治」という訳じゃないかと感じます。autonomyには、「主権・主権国家」や「自治権」という意味も含まれる。

だから、本来「自律性(autonomy)」という言葉が意味するのは、部分的でも限定的でも条件付きでもない「主権」という概念に近い状態。個人であれ国家であれ、自己だけが権限を行使できる固有の領域を持ち、その領域内では自由裁量がある状態を指す言葉なんです。

それが人間が生まれながらに持つ欲求であり、内面から真にモチベートする要素である。ね、なかなかオオゴトになって来たでしょう?

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そこで経営者は思います。そんなもの社員に与えられるわけがない。みんなが好き勝手にやられちゃ、会社は一体どうなるんだ?

これは誤解があって、生身の人間的欲望に基づく「個人としての自律性」とごっちゃになってるんですね。「個人としての自律性」というのはどちらかと言うと政治的な意味での「自由」の領域です。

個人は「生身の体」や「私生活」という固有の領域を持ち、そこに関して他者から介入されない自由裁量を持ちますね。そういう主権がある。実態としてどうかはともかく、建付けとしてはそういうことになっている。それを自由主義社会と呼ぶわけです。

僕自身は、日本社会においてはそういう「個人としての主権」あるいはその前提となる「不可侵な個のボーダー」が、曖昧にされ存在していないというようにも思っていて、それは非常に大きな問題であり、実は今日の話についても根本はそこに至るように感じている大事なテーマなんですが、ちょっとここでは一旦話を戻します。

じゃあ、仕事における企業における「自律性」とはなにか?それは「働く人としての自律性」であり「役割の自律性」です。組織という動的システムを構成する「サブシステムとしての自律性」とも言える。

「役割」は、生身の人間と違うので、構成要件(constitution)が定義されていないといけない。役割が持つ固有領域や存在目的について定めるということですね。
簡単に言えば、その役割が「自律的にコントロールできる範囲はなにか?」「なんのために何を目指すのか?」ということが定まらないとならない。そうでないと「役割の自律性」は起動しません。

(余談ですが、the Constitutionというと「憲法」と訳されて、つまり国家の「構成要件」を定めたものが憲法ということですね。)

さて、この「構成要件」が定まらない状態でフリーハンドだけが与えられると、「役割の自律性」ではなく「個人の自律性」だけが立ち上がってしまいます。組織が例外的に倫理的な人々で構成されていれば別ですが、個人の欲求にのみ基づき、まさに多くの経営者が潜在的に恐れるような「悪さをするばかりの好き勝手」状態に陥る。

そして、単独の「役割」についての構成要件だけでなく、「役割と役割の間・関係性」についても、当然、強固なルールが必要になります。
みんなが自律的に、役割の存在目的に向かって「好き勝手」やる。だからこそ、異なる立場から交渉し調整しそれぞれゴールを目指すためのルールや仕組みが必要になります。システム全体の高い安定性があるからこそ、個別のプレイヤーは自由度高く動き回ることができる。

だけど、ここで大事なのはその順番です。

「ルールに反しない限りの自律性(=条件付き自律)」じゃなく、「まず第一に全面的な『役割の自律性』があり、それを制限できるのはルールのみ」ということ。自由度の方が先であって、逆ではない。

そうしないと、実は直感に反してルールや仕組みの方がなおざりにされます。そして、そういうシステム上の安定性を司る部門やメンバーに大きな負担を生じさせてしまうんですが、その理屈はちょっと複雑なのでまたの機会に譲ります。

(ちなみにこれも余談ですが、ここで言う「役割の構成要件」は、いわゆる「ジョブディスクリプション」にも近いものです。今、巷間言われる「ジョブ型雇用vsメンバーシップ型雇用」で言うメンバーシップ型の日本企業ではほとんどジョブディスクリプションがありませんね。だから、そういう企業の経営者が本能的に社員の自律性を恐れるのは、ある種当然なんです。が、ジョブ型云々もまた大きなイシューなので今回は措きましょう。)

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autonomyへの欲求は、人々のパワーを引き出す。同時に、その強大なパワーを制御するためのルールや仕組みも必要になる。

また、組織にはある種の緊張関係をもたらすでしょう。

経営者や上司は、常に自ら考え自ら行動する社員たちの目にさらされることになりますからね。また、社員同士も主体的に自律的にコミュニケーションし、自ら考え行動することが求められる。

それは全然簡単なことでも楽なことでもありません。決して口当たりの良い「飲みやすいお薬」ではない。

でも、働く一人一人のフルパワーを引き出すためには、「自律性(autonomy)の確保」は不可欠な要素ではないかと僕は思います。根源的に人間をモチベートし、そして、その本来の力を発揮させる唯一に近い方法であると。

そして、そうした個々人のパワーを発揮できないとすれば、多くの中小企業が生き残れない時代に突入しています。もっと言うと、我々の社会そのものの存亡もまた、人々の自律主体的なパワーにかかっているのではないでしょうか?