人事は流行に従う
最近、クライアントや関係先から、「今後の人事制度はジョブ型にしていったほうがよいのだろうか」とよく聞かれる。以下、話の焦点を中堅企業に置いて述べる。
「人事は流行に従う」と言う名言を吐いた人がいた。私は30年ほどをコンサルティングの世界で過ごしたので、まさしくその名言の通りだと思う。複線型人事制度、専門職制度、成果主義、目標管理による評価、コンピテンシー評価と、これらの流行は、所期の効果を挙げたものがいかほどあるだろうか。むしろ費やした多大な無益の労力と制度の残骸が残っている例の方がずっと多い。今回のジョブ型流行もそうなる恐れが大きい(もちろん、たとえば目標管理なら、P・Fドラッカーの原思想とはおよそ異なる、流行の制度によるかんばしくない結果をここでは言っている)。
それが時流だと言う「集団圧力」に屈し、十分に情報収集と熟慮を経ないままそれらを導入したため、混乱し、ロスを被るのは、現場の社員達である。その度合いは、誠実で素直な人が多い中堅企業にあってはなおさらである。
真のジョブ型
今、日本のそこここで導入されるようとしているジョブ型と称する制度は、ほとんどがその「もどき」である。ジョブ型「もどき」は、いわゆるメンバーシップ型の長所を減殺し、真のジョブ型の長所も生じて来ない、それでいて益のない手間ひまの増える何とも中途半端なシロモノだ。「日本型ジョブ型」などと称する。どうしてそうなるのか順に述べよう。
まず、真のジョブ型と言うのは、要するに欧米型のポストありきの等級であり、賃金であり、雇用である。本来ポスト型と言うべきだろう。人ではなく、ポストに値段と等級がつく。それをできるだけ職種ごとに行う。
そこでは、一般社員はどれほど能力を磨く努力をしても、ポストにつかなければ給与はさして変わらない。管理職はより値打ちの高いポストにつかなければ報酬はアップしない。
かつてある大手電機メーカーがアメリカに現地工場を建てた時に、多くの現地人技能工を雇った。その人たちは単一の技能しか持っていない。そこに、やがて製品ラインを広げるために、日本人の職長格の人がやって来た。職長は、彼らより技能の幅がずっと広いので賃金は高い。しかし当面の仕事は、すぐ新設ラインがあるわけではないから、彼らと同列の技能職のそれである。何が起きたか。現地採用の技能工たちは不公平だ、差別だ、と怒り出した。真のジョブ型というのは、善悪はともかく、こういう点景に本質が現れている。
これを、他の職種、管理職に広げても同じ理屈である。この場合の、ジョブ型とメンバーシップ型(というより普通に職能型と言うべきだろうが)のそれぞれの長所短所は明らかであろう。
真のジョブ型に言うポストとは、私たち日本人が考えるよりはるかに厳然として定員の限られた枠組みである。○○担当部長、○○主管だとか、○○主任技師などと、非ラインの管理職相当資格を自由にははつくれない。役職と一般社員の二種類しかないのだ。さらに言えば市場価格の高い花形職種のポストはより高報酬であり、同じ部長課長と言っても地道なポストは値段が安い。これなら確かに人件費がうまく管理でき、組織にぜい肉が着かない。高給のいわゆる「働かないオジサン」も生まれにくい。
よって、事業運営上そのポストが不要になったら会社都合により解雇できるということになる。解雇ができなくとも、ポストがなくなる以上、降格、減給はあたりまえだとまでは言わなければ、全く真のジョブ型とは言い得ない。
中堅企業にとっての真のジョブ型
この真のジョブ型の利害得失は、中堅企業一般にとってどうだろうか。
多くの中堅企業は、必死で少しでも良質な人を雇い入れ、熱心に教育し、より活用しようとする。また、日本人経営者、管理職のほとんどは、等級を、ポストではなく人に付けるものと考えている。これが逆に上述のように欧米人にはどうにもよく理解できないらしい。職務(ポスト)が違うから等級(給与)が違うので、等級を人に付けるというのは、えこひいき、場合により肌の色による人種差別に見える。しかし、常日頃、人に対するまともな評価と活用を心掛ける、多くの日本のマネジャーにとっては、人に等級をつける、格付けをするのはきわめて自然なことである。
能力が全く同等の、活力旺盛で仕事も優秀な係長が2人いたとする。課長ポストがひとつなので、昇進評価の勝負がついたら、片方は一生ヒラ社員で、レベルの低い仕事をしていればよい、などという人事処遇は、まともな中堅企業なら決してしないだろう。それだとたぶんその片方の優秀な人は会社を去り大きな損失になると感じる(真のジョブ型ではそれを損失とはとらえず、組織を適切なサイズに維持できたと考える)。だから、昇進できなかったほうの人も、何らかの形で活かす方途を見つける。その代わり人件費の管理は少しややこしくなる。しかし、これは総じて美風と言うべきだろう。それをわざわざ壊してまでジョブ型にして得られるものがより大きいだろうか。
ジョブ型により、年功主義を排除したいと謳う例もある。なるほど、真のジョブ型を徹底すればポストに定義された職務を遂行できる能力要件を満たす者しか登用しない建前にはなる。その理屈は結構なことだ。しかし、それは、多くの中堅企業にとって、現実離れしているだろう。
中堅企業の場合は、優秀なキーパーソンははじめから限られている。ポストの能力要件を列挙して書いたからと言って、それを満たす人が自動的に増えやしない。まして随意に選べるような状態にはならない。どんな人事制度を採用しても、その種の限られた人材に、縦横無尽に幅広く活躍してもらう以外に道はない。よって人事の問題は、いかにより早くその種の人材を発見し、経営を担える人材に育ててゆくか、そしてできるだけ厚く報いることができるか、にある。紙の上にポストの要件を細かく書いてみても始まらないのだ。
実際、よほどの旧弊を残した会社以外は、別段ジョブ型を入れなくとも、情実年功ばかりにて昇進を決めているなどと言うことはあり得ない。簡単なアセスメントなどを行ってみても、まずこの順で登用するほかはなかったと思えることが大多数である。言い方を替えれば、中堅企業では、人材が限られ、実際には別段ジョブ型の手を借りなくても(と言うよりジョブ型を作り込んで大汗をかかなくても)実力主義はほぼ浸透している。学歴などは、採用時以外のその後は、まず問われていない。そうしなければ生き残れない。
ついでながら言うと、中堅企業がそこそこの規模なり体裁になると、採用においてやや不必要に学歴(出身校)に拘るようになる例が目立つ。たとえば、京セラや、日本電産が、中堅企業一般よりもはるかに大きな規模になるまで、いかに学歴ではなく人物本位な採用をしていたかを改めて思う。人物本位とは、要するに、誠実に粘り強く努力を持続できる資質かどうかである。学歴、出身校とはまず相関関係がない。現実にはその資質が、挑戦心を伴わない生半可な才知をはるかに上回ることがいかに多いかを両社の歴史は物語る。中堅企業にとって学歴愛好の度が高まれば、それだけよい人材の採用のチャンスが減じることになる。
ジョブ型もどき
上述のような真のジョブ型は、多くの大企業にあっても、おおかたの日本人社員には合わないと思うのか、ジョブ型「もどき」が登場する。
「もどき」は、ポストに値段をつけるよりは、苦労して職務設定をしながらも、やはり人に値段をつける割合の方が多いようである。すると何のためにそういう労力を用いるのかよくわからない。正規のライン課長、部長にならなくとも、等級、賃金はそれなりに上昇できる。さほど忙しくもない中高齢の専門職が、激務にどっぷりつかるより若いライン管理職より給料が高いことは、現在でも珍しくないわけだが、そこには抜本的に手を着けるわけでもなさそうだ。つまりは従来の職能資格制度などの本質を残したまま「ジョブ型」と看板を掛け替えたわけだ。
私も上記のような現象は、課題だとは思っている。だからと言って会社中のポストに、スーパーの売り場の正札のように値段を貼ろうと思う会社はさほど多くないということだ。結局は、従来の制度の運用、つまりは人の評価に問題の本質がある場合がほとんどなのである。それを正視しないでやたらと制度を取り換えても、変化は期待できない。
ところが、そうしたジョブ型の説明書きを読むと、仕事を専門的に深掘りする各種コースを設定し、社員の意欲と期待された成果を高める、そのために精密な職務記述書をつくったなどと、およそ真のジョブ型の原理からすれば見当違いなことがたくさん書いてある。ならば、社員の意に反した配置転換や異動は一切ないのか(真のジョブ型の一原則である)と問えば「それは・・・・」と言うことになる。
だいたい、上述の専門的云々と言う程度の事なら、従来のごく普通の職能資格制度にも書いてある。表紙を替えたら、今までできなかったことが急にできるようになると言うのだろうか。というより、そのようなことが、今さらわざわざ目指すようなことなのか。21世紀の今日、どんな担当者スタッフの仕事だって(それを一生継続するかどうかは別として)それなりに専門的である。そうでなければ厳しい競争に勝ち抜けるはずがないではないか。あたりまえ過ぎることである。
職務記述書には効用は薄い
いやいや、ジョブ型は、従来にない職務記述書による専門性の表現をもたらし、目指すものがより明確になったなどと言う主張もある。まるで職務記述書がこれまで見られなかった奥義秘伝のように喧伝される。が、それもまた見当違いである。
まず、本質的には、そういうものを精密につくったからと言って、それが社員の動機づけや成長に益することはない。すぐさま陳腐化してしまう、その種の字句になど囚われず、お客様との接点その他の厳しい競争場裏において、自己啓発、新知識の習得を日々進めてゆかなければ、世の中の流れの速度にあっという間について行けなくなる。ごく平均以上の人材ならば、それを痛いほど知っているのだ。
言い換えれば、専門の仕事内容の最深部や修羅の巷の様子などはよく知らない人事部員やコンサルタントが書いた職務記述書ができたからと言って、会社の競争力を担う優秀な専門職が自然に増えやしないのだ。優秀な専門職は、仰ぎ見るさらに優秀な専門職からしか生まれない。ではそういう人々をどう育てるのか。話がそれてゆくからこの辺でやめておくが、そういう専門性を育ててゆく経営者の決意とそれをきちんと評価してゆく結果による以外にない。それを企業文化と一般に言うが、これを構築するには膨大な熱意の総量が必要だろう。少なくとも部屋にこもって人事制度を書き換えたり行動指針をつくったりしたからと言って、すぐに形成されるものではない。
以上は本質面だが、もっとわかりやすく、現象的実証的に言えば、かつては職能基準書と言う、同じ5文字のほとんど似たような内容の精密なものがあった。より近年には職種別、部門別のコンピテンシーディクショナリーなどと言う、もっと細密なものあった。それらに、そういう特別の効用があったと聞いたことがない。今はどこかの倉庫に眠っているのだろう。今度は、人の能力ではなく職務に焦点あてたものだから、今回だけは特別に魔力を発揮して変化が起きるものだろうか。実際私は過去何十年のあいだ、そういうものをつくりましょうと勧めたことはまずない。徒労に終わるのがはじめからわかっているからだ(ここで述べているのは、細密な職務や職能の表現にあまり意味がないと言うことで、職能資格制度は、実力の評価をしっかり運用すれば、その骨格自体は、効用を失ったわけではないし、当分の間は有効なツールであり続けるだろう)。
さらに実際の現象を追えば、欧米でも、職務記述の限界をとっくに感じていた。あたりまえだろう。社員があらかじめ紙に書いてある仕事しかしませんなどと言い出したら、会社の運営は1日たりとてできない。よって個々の仕事の記述の後に、「その他指示ある事項は職務に含む」と言うような、よい意味であらっぽい包括的なものが入ることが普通になっている。
しかし、そんなことなら、「職務記述書」などはじめから不要ではないか。総務部ならば、人の適性を見つつ、君の仕事は人事一般、君は主に採用、君には庶務を幅広く見てもらおう、君は勤労関係などと言えばそれで済む。めいめいの守備範囲の谷間に落ち込みそうな案件、臨時にそういう境界を超えて皆で協力しないといけない業務などが生じたら、まともな上司がまともな指示をさっさとすればよいだけのことである。もちろん、たまには、まともでない人もいる。それは会社として個別に指導するなり対処すればよいだけのことだ。上司がまともでないが(繰り返すがそういうことがやたらと多い訳ではない)、職記述書があるお蔭で、職場が自律的かつ円滑に回っているなどと言う話は聞いたことがないし、私たちの人間世界では未来にも決してそういう現象は起きない。
職務記述書も、かつての職能基準書等も、書いたそばからすぐに陳腐化してゆく。それをいつも追いかけても付加価値は生じない。ではなぜ欧米ではそういうことをするのか。そこに値打ちが生じるかどうかではなく、上述したような、それが必要とされる差別その他の社会的歴史的背景に基づく制約があるからだ。日本にはそういう制約はまずない。その柔軟さ、つまりは有利さをなぜわざわざ捨てるのだろうか。
要するに真のジョブ型の効用と職務記述書とは関係ない。
ジョブ型「もどき」の導入は実益はない
上述のような「もどき」のものをなぜジョブ型と言うのか。残念ながら、やはり少し軽い流行と思う。もちろん中堅企業と異なり、上述のように、大企業には、高賃金のいわゆる「働かないオジサン」がたくさんいる場合が多いから、そこの手当てをするためにジョブ型と言って、そういう方々の幾分かの処遇ダウンを企図している例も少なくないだろう。
しかし、そういうことがしたいなら、余計な手間ひまをかけないで、現行制度でも可能なはずだから、正々堂々、まじめに働かない人は、きちんと評価して降格減給します、それが続くようなら、イエローカードを切りますと言えばよいではないか。そのほうがよほどすっきりする。問題の核心をずらして、全社員向けの何がしか希望に満ちた制度と宣伝するのは誤解を与え、よって混乱がそれに続く。この種は、かつての成果主義が、分厚くなった団塊の世代の人件費抑制が真のねらいでありながら、それと全く別の指針を示したのと同工異曲に見えてしかたがない。
ともあれ、ポストは限られ、ポストが上がらなければ大きな昇給はない、ポストがなくなっても、解雇はしない(もっとも日本の法制度社会慣行では、現在はそういう理由だけでは解雇は事実上行いにくい)、よほどのことがなければ降格減給もしない、会社側が、その都合による人事異動権を持ち続けると言うのなら、それは本質において従来通りの人事制度そのものなのである。なのに、この上、先に失敗した成果主義のように、またわけのわからない書類をたくさん増やして社員にそれらとにらめっこさせ、どうでもよいような重箱の隅の解釈論議をさせてどうするのだろうか(何よりのロスは、仕事に打ち込む時間がその分減る)。
「また始まったか。しばらく様子を見よう。」と大企業の現場側のオトナの社員達は言い交しているかも知れない。が、中堅企業では、そういう時に、美質が裏返って弱点になり、もし自社に符合しない制度であっても、社員達は何とか忠実に努力して取り込もうと努力するから、疲弊と混乱が大きくなる。
要するに中堅企業にあっては、ジョブ型「もどき」の導入は、時間と労力の無駄である。そんなことをやっているひまがあったら、社員の評価と動機づけを、管理職が活き活きとできるよう、地道に粘り強く教育訓練をするほうがはるかに有効だ。
真のジョブ型が適合する中堅企業もあるのか
では「もどき」ではなく、真のジョブ型が適合する中堅企業もあるのだろうか。欧米を商売の主戦場にし、日本人より多くの欧米人を雇用する会社ならば、そちらの制度にある程度合わせざるを得ない。それは人事制度論の善悪ではない。経営環境への適応である。
そうでもない圧倒的大多数の中堅企業に関する限り、適合するのは百社に一社もないだろう。なぜか。
中堅企業は、その力が及ぶ限り、ポストと言うよりは、人を軸に、人を大切にして活用しなければ、成り立たないからだ。もっとはっきり言えば、中堅企業は特別なエリート処遇ではないやや少数のキーパーソンが、身を粉にして事業運営を切り盛りし、残った誠実に働く多くの一般社員を動機づけ、活用し牽引してゆかなければ生き残れないのだ。それぞれに一応の専門分野らしいものはあるとしても、その道の研究者になるのではないのだから、そうしたキーパーソンには、(もう一度言うが)縦横無尽に活躍してもらわねばならない。優れたサッカーの選手に厳密に守備範囲を強いるなどと言うことがないように。逆に言えば、そこがそういう人材にとっての中堅企業にて働く自己実現の魅力でもある。そして、いかにしてその方々に物心両面にて報いるかこそが人事課題なのである。
多くの一般社員のほうも、事情は似ている。それなりに専門意識を持つのは構わないが、実際はそういう拘りを狭く持ち過ぎる人よりは、幅広い経験を積んだ人の方が、一般に大きく成長している。そこからやがて立派なリーダーがまた育つ。何も開発者に経理や資金運用を経験しろなどと言っているのではない。たとえば、中堅企業にあって、私は開発者だから、アイデアを創造することだけをすればよいので(もちろんそれは豊富に出して欲しい)、職種や「ジョブ」の異なる、設計や生産技術のことには関心を持たなくてもよいなどと言っていたら、そのアイデアが深みのあるものにならないだろうし、現実化できる可能性がぐっと減ってしまうのは明らかだろう。
こうした上下左右の一体感の形成が中堅企業ならではの、大企業にはない強みなのだ。これを弱めるような人事制度の導入は禁忌であり、逆にその強みをさらに磨くような運用に留意しないといけない。
真のジョブ型の適否を考える事例
そんな場に、真のジョブ型を持ち込んだ時に、今までにないよい効果が得られるだろうか。
たとえば、技術部長として活躍しているキーパーソンがいる。ぼつぼつ後進も育って来たし、今は有難いことに受注が多く、製造現場が混乱しがちだから、しばらく工場長をやって汗をかいてもらおうなどと言うのは、ごく普通に起きることだ。しかし、こういう当たり前に生じることが、真のジョブ型では扱いがややこしくなる。
管理職だから、異動への同意などはあまり厳密に問わないとしても、一般に技術より製造の方が、ポストの対価は低いだろう。だから「給与は何%か下がるが、これは君の能力の評価とは関係ない。会社にとって大事な任務だからぜひ頼む。」と珍妙な説得をするのだろうか。それでやる気になる人がいるだろうか。こういう場では、賃金には1円も触らず話題にもせず(難事を任せるのだからと上げるのは構わないが)、その必要性を経営者が当事者に説得し、当事者もそれに応え意気に感じて新任務に取り組むことが、ほぼ唯一のあるべき姿である。人事制度など、わざわざ改めてどこにも出て来ないほうがよい。
不思議な事に、恐らくジョブ型「もどき」のほうだと、たいてい私が述べたのと同じ結論を目指すのだろう。だとしたら人事制度を全面刷新するという膨大なコスト、手間をかける必要がどこにあるのだろうか。そうならば、繰り返すが、仕事に打ち込ませながら、あるいは、社員(特に管理職)の意識に働き掛ける教育訓練や面接などをするほうがずっとよい。
一般社員でも同じだ。商品開発部門に配属され数年したが、論理的思考の緻密さはやや苦手な一方、エネルギーにあふれ対人能力が素晴らしいという人がいたとする。そこでいっそ営業をやってみるかという話が出て来た。これもよくあることだ。こんな時に、真のジョブ型ならば、本人の同意のない異動はできない。確かにむやみやたらと無理やり異動させるのがよいとは言わないが、そればかり言うことが本人と会社にとって最適なことなのだろうか。あるいは、ジョブ型だから上述のように職種別賃金による調整も必要になる。そういうややこしくて付加価値を生まない話をしないで済むほど、未来に向けて本人を励まし、動機づけることに時間とエネルギーを用いることができる。
わが国では、ほぼ新卒採用が主流だ。つまり社会経験もなければ、よい意味で右も左もわからない人を雇う。そういう時に、いったんはどの職種が希望かと聞くのは結構な事だが、そういうものが、神仏への誓約でもあるまいし、互いに一生厳守すべ契約だと思う必要がどれほどあるのだろうか。時々の節目に柔軟に適応できる人事制度のほうがよいのだ。かのプランドハップンスタンス理論や、ビジネス界出身で多くの関連著書のある出口治明氏が言うように、意味あるキャリアは、ほとんどが偶然から生まれるのだ。読者もご自分の経歴をふり返ってもらえばすぐわかるだろう。ご自分にもたらされた貴重なよき経験は、ほぼ偶然によっているはずである。
人事制度はシンプルでよいが
ジョブ型は、欧米の歴史と背景を基礎に生まれた人事制度である。もしも本当にジョブ型がよいと決心したのなら、その理想とする状態に至るには5年も10年もかかるだろう。人事というのは、そのくらい粘り強さが要る仕事である。しかし、その間、また世の中の流行が変わってしまうかも知れない。するとその時にはまた新しいものを追うのだろうか。そういうことは徒労と言うほかにない。
「日本の大企業のマネジャーは、いつのまにか公務員のような人が多くなった」と述べたのは、シャープを再建した、かの戴正呉氏である。公務員にも立派な人は多いから、この場合戴氏が言いたいことは、結果に対して責任を取らない人と言う意味だろう。それも、また色合いが部門によって随分違うようだ。営業部にていちばん大事なお得意先を怒らせて取引停止になったら、その責任者は厳しく責めを問われるだろう。重篤な不良品を出荷した製造部とうっかりそれを見逃した品質管理部もやはり強く責任を問われる。事業の運営には、一般に責任を伴う。しかし、珍妙な人事制度を導入して混乱を招き社員を疲弊させたが、その責めを問われたというのはまず聞いたことがない。失敗は成功のもとと言うが、どうもそういう次元の話ではないようである。
人事制度というのは、要するに、誠実に努力する社員をできるだけ大切にし、資質能力の高い者に早々に相応しい経験とポストを与えることだ。突き詰めればそれだけのことなのだ。どうも人事の世界の流行は、シンプルな事をわざわざ複雑にして、一層混迷させたがる向きがあるから困ったものである。
しかし、コーチングの神様ゴールドスミスが言うように、シンプルだからと言って実行(運用)がやさしいわけではないのはこの場合にも当てはまる。その実行のためには、人事制度はシンプルでよいが、経営者と人事部門が努力してその趣旨の浸透をいつも図らないといけない。努力とは、ライン部門の現実を知り、時に支援し、時に説得することである。人事担当者はそこでこそ汗をかかないといけない。誰も見ないような膨大な細かい書類を製造してラインに放り投げることが使命ではない。
別段今回のジョブ型に限らないが、私の場合、この十年あまりは、新しい制度を設計するのと同程度に、不必要に細かくつくりこみ過ぎた人事制度を運用できないのでどうにかしたいという相談が多くなって来た。考えさせられることだ。
シンプルな原理と骨太な運用ということが人事制度を考える上で最重要である。主役は人事部員ではなく、現場の上司と部下なのである。
では、メンバーシップ型がよいのですか、と次に質問されることがある。そうやって型にはめた議論には少し戸惑うが、私は、「実力主義長期雇用」とずっと言って来た。上述に何度も、大多数の誠実に努力する社員を大切にするという意味を述べたが、それと同旨である。まあ分類するならメンバーシップのほうだろうが、骨格は、運用において「実力」を重視した職能資格制度でよいと思っている(名称は何であれ、人に等級を付ける制度のことだ)。
しかし、逆から言えば、そうでない、努力する意思のない社員を「メンバー」として無理に大切にする必要はない。互いに不一致と見切りをつけるのなら早いほうがよい。もちろん相互に礼節は保ちながら。ただ、「努力する意思のない社員」と、「何でもすぐにハイと言わずに質問や意見を言う社員」とを混同してはいけない。そこは、中堅企業における人材育成上の課題かもしれない。
私は、かつて人材マネジメントは和魂洋才で行うべきだと著書に述べた。この場合の和魂とは、そういう多数の誠実な社員に、自社を基盤として少しでも幸せになって欲しいと願う組織運営の根本の意思である。洋才とはそのための道具である。たまたまジョブ型が中堅企業ではどうかとこの稿では述べた。が、有効な道具はいろいろある。それらを述べ出すとは本稿からはずれて行くので、またの機会としたい。
人事制度に流行などはほとんど意味がない。というより人事制度は、真摯に懸命に使命を果たす多くの社員の意識の表面にはあまり出て来ないようにしたほうがよい。呼吸する空気のように、あるいは航行の際の順風のように、その遂行を支援するものであることが望ましい。